2013-11-26

ダライ・ラマ ティーチング

2013年9月30日〜10月3日までダラムサラのナムギャル僧院で行われたダライ・ラマ氏によるティーチングに参加した。
私も行くまでは一体どういうことが行われるのだろう(おそらく対話・依頼相手によって異なるのだとは思うが)、どうすれば参加できるのだろうと色々疑問があったので、自分が学んだことを中心に、こんなことが行われているよっていうのが分かればと思う。
(あくまでも私が参加した時の話のため、参加方法等は別の機会のときは異なる可能性はおおいにある)

1.参加方法
基本自由参加。事前に許可証をとる必要があり、事務所で10ルピー(約15円 ※1インドルピー=1.5円)と写真を渡す。パスポート(身分証明書)を見せて発行される。事務所は町の中にあるので簡単に取得できる。
席が言語別に分かれていて、前日から入る事ができるので、日本人席に自分の名前を貼って場所を確保した。もちろん確保しなくても後ろの方や他の外国人席で聞く事も出来る。席取りの仕組みは日本人枠のなかでだけのルールだから恐らく他の団体の場所でやっても意味ないと思う。

2.当日どんな風に話が進むのか
僧院にはカメラ・携帯・ライターなどの火気を帯びたものの持ち込みは禁止。荷物チェックがあるためほぼ手ぶらで行くと楽。入り口で預ける事はできるけど人が多いため待つことになる。入場したら自分の取っておいた席に行きダライ・ラマ氏が入場するのを待つ。だいたい1時間くらい前から待っていた。
私の場合は、ダラムサラにある日本食屋ルンタで事前に、説法内容のテキスト希望者は申請すれば10ルピー(約15円)でもらえるということで希望しておいた。何について話すのかは事前にHPで告知されていた。
日本人の同時通訳の方がいて、ラジオを貸し出してもらえるので(貸し出し無料、デポジット方式)それを聞きながら話を聞く。日本人枠は床に薄いマットのようなものがひいてあったが、他はどうなっていたかわからない。もとはコンクリートの床なので堅いし、外だからちょっと寒い。防寒はしていったほうがよい。
8時から開始され朝はチベット僧からパンとお茶が配られる。自分のコップがあればお茶はもらえ、なくてもたまに紙コップをもらえた。自分のコップがあったほうが確実。
10時頃1度休憩がある。お茶はこのタイミングでもまた支給される。話している途中でもトイレや途中退出など勝手に動くのに対してはあまり厳しくない。15分程度休憩してまた12時頃まで話を聞き終了。
質疑応答などはなし。最後はダライ・ラマ氏が聴衆者の前を通ったため近くで顔を見る事ができた。

3.どういう話をするのか
今回は『菩薩道次第集義』というのと『六十頌如理論』というテキストを基に話が進められた。
テキストを読み進めていくなかで、それぞれの仏教的な解釈と説明、途中で曼荼羅への旅があったり、それ以外にはダライ・ラマ氏の考える宗教とは、生きて行くうえで大切なことを話していた。
仏教的な話は用語がわからなかったりで難しかったけれど、ダライ・ラマ氏自身の考える意見はとても参考になり面白かった。

4.印象に残っている話いろいろ
全ての宗教は愛と慈悲のため、心を豊かにするためにあると考えていて、どれを選ぶのかは人によって異なっていてよい。病気が違えば選ぶ薬が違うのと同じで、それぞれに合ったものを選ぶ、もしくは選ばなくてよいというのだ。自身は仏教を勧めていたが、他の宗教に対しての批判ももちろんなかった。そしてそれぞれの選択を尊重すべきであるということ。

自分の苦しみを認識してその原因を探る事が重要である。何事も理由を説明できなければそれそのものは存在しないことと同じ。例えば説法を聞きにきているならば、何を得るためにきているのか、目的がはっきりしていないと意味がない。重要なのは論理学であり、問答し続ける事であると。そして教えを客観的に見る事も重要。執着すると偏見が生まれるものなので、正しい知識を持って、その事が正しい事なのかを見極めるのだ、と。
つまり問答が常に重要なのだなと思った。

人はけなされれば落ち込み、褒められれば喜ぶもの。しかしそのどちらも心が乱れているから起こることである。外的要因に振り回される事は幸せを遠ざけることである。
どんなに冷静に対処できる人でも逆境に立たされる事は必ずあるが、その時に心をコントロールできるようにしておくことが重要。運がいい、悪い、という話があるがそれは全て過去にしてきた行動のがずっと繋がって起きる事だということを理解すべきである。

人はみな同じ可能性を持っているはずで、大切な事は自分自身を大切にする事よりも、人の苦しみに敏感になることである。愛と慈悲という宗教の根本にあたることである。

ある事を出来ないと思うと出来なくなってしまうが、努力し続けるとそのものに慣れ親しむことができる。慣れ親しむという事は理解に近づくという事で、いい方向に向くと思われる。
私はこの表現が結構気に入った。努力すると出来ると簡単に言わないところが。慣れ親しむ事ができるというのはとても納得感がある話であった。

そして曼荼羅への旅。全員に赤いはちまきが配られてそれをつけることにより入り口に行ける。ここでいう曼荼羅は絵画のことではなくて、密教の話。修行の一環として儀式が行われるという。曼荼羅の中を旅して(口頭でダライ・ラマ氏が説明をしていく)、最後に私たちがどこに属する者なのか、そして名前をもらい終了。分からない部分も沢山あったが、こういう儀式があるのだと思うとあまりに自分の知っていることとかけ離れていてとても興味深かった。

ダライ・ラマ氏の言う本来の宗教の意味ならば、世界で宗教が原因の一部となる争いも起きないはずであると思ってしまうが、色々なことが絡まってそうではなくなっているということも分かる。こんな風に純粋に信仰している人々が大多数なのに、世の中は平和にならないことを考えると、世界平和なんていうことはとても軽く言える話ではないと強く思った。

そして現在78歳のダライ・ラマ氏はとても肌につやがあり見た目は元気に見えた。表情も穏やか。説法と同時に自伝を読み進めていたから、色々なことを経験してきて今があると思うととても感動した。

宗教的な話では因果応報、色即是空の話をずっとしていたが、因果応報は自分の実感できる部分もあり共感できたが色即是空は考えれば考えるほど難しい話であった。
私自身は宗教に疎く分からない事も沢山あったけれど、テキストではなくダライ・ラマ自身の語る言葉がとても印象に残った。
私自身が各国で色々な信仰を見てきてずっと考えている、なぜここまで信じることができるのか、ということについても、彼らにそれが必要だからであるということはなんとなくわかった。1つの理由にもならないかもしれないが、始まりは何にせよ同じように考え問答し続けているのだとも思った。


そんなこんなで4日間のティーチングが無事に終了。それと同時に次の町に移動した。


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